はじめに

 幕末の江戸三大道場といえば、士学館、玄武館、練兵館ですが、練兵館で教えていた剣術流派が神道無念流です。練兵館の創立者は、齊藤弥九郎。創立には、藤田東湖、江川英龍など当時一流の知識人が関わり、木戸孝允はじめ、日本の近代化に貢献した錚々たる人物を輩出しています。神道無念流と練兵館について、内容が正しいかどうかは別として、様々な研究レポートや著作があり、概要を知る手段は多数ございますのでご参照下さい。

神道無念流

「神道無念流」柴江運八郎

 私たちは、神道無念流 練兵館流儀の修行者の主翼として、 先達から受け継いだ流儀をしっかり保存し、そして正しく伝承、普及していくことこそ自らの使命と信じ、全国で広く活動できるように組織化することを決意いたしました。

 私たちの当面の活動としては、私たちが伝承、管理する一部資料の展示会やセミナーなど開催し、さらには練習会を計画しています。口伝内容も含め少しづつ公開できればと考えています。また、本WEBページはあくまでも仮であり、設立した後は、伝承内容をさらに掘り下げ、また下記のご師範の方々のリアルなエピソードも含め公開していきたいと考えます。

神道無念流 練兵館流儀 設立準備室

系譜

 さて、私たちの系譜を簡単にご説明いたします。私たちの師範である豊田喜代子は、神道無念流の正式な継承者で、齋藤弥九郎から伝わる練兵館流儀の皆伝者です。

1、楠本章三郎 の系統

 藤弥九郎は、もともと岡田十松の撃剣館門下でしたが、弥九郎が練兵館を創立すると、岡田十松の子息、二代目岡田十松は、早々にその子に撃剣館を譲り、自らは練兵館の客分として逍遥自在の日々、見どころがある若者には自らが剣の指導していました。剣のみならず広い視野と深い見識、総合的な人間力の指導を目指す弥九郎とは異なり、純粋剣士であった二代目十松は、もっぱら剣技を追求し、剣においては弥九郎をしのぐ達人でした。そんな二代目十松から特に目をかけられていたのが、大村藩士、楠本章三郎です。章三郎は先輩にあたる仏生寺弥助、撃剣館から移籍した百合元昇蔵とともに剣術三昧の日々をおくっていましたが、ついに帰藩の命が下り、戊辰の役に出陣。維新が成り、大村に戻った章三郎は郷土の若者達に神道無念流を教えました。

「がまんがまん」二代目岡田十松

「がまんがまん」二代目岡田十松

 楠本章三郎は兄正隆とともに練兵館に入門。章三郎は14歳。隠居先生(二代目十松)からはとても可愛がられたことしょう。兄はほどなく国許に戻りますが、章三郎は練兵館に残り青春を過ごします。そんな中、兄貴分の仏生寺弥助が新選組芹沢鴨と組んで上方で暴れまわり、十松は齋藤弥九郎から弥助の狼藉を止めるように依頼されます。弥助は練兵館最強の男。十松は章三郎を説得に向かわせますが…。

 章三郎から剣を教わった若者たちが集い、ああでもない、こうでもないと自習再考し、切磋琢磨するする場を提供していたのが、久松鶴という女性で、豊田師範の祖母に当たります。久松は、章三郎、そして末岡四郎とも交流があり、本来は口伝である内容を再考の過程で書き残した若者たちのメモや章三郎自身が書き置いた「篤信齋大先生口授」などを託されました。これらはすべて豊田師範が受け継いでいます。なお、寺井知高(後述)は、章三郎から直接指導を受けた少年の一人です。

「神道無念流」岡田十松

「神道無念流」岡田十松

 この二文字こそ神道無念流の極意!
 隠居先生は章三郎のためにわざわざ読みかなを付けてくれています。

斎藤弥九郎 二代目岡田十松 斎藤歓之助 楠本章三郎 末岡四郎 久松 鶴 豊田喜代子

末岡四郎は、戊辰の役では楠本章三郎とともに戦い、少年鼓手浜田謹吾は末岡隊に属していました。浜田謹吾は角館で戦死。齢15。章三郎の心中いかばかりか。

2、藤歓之助の系統

 幕末の大村藩では、藤弥九郎の三男、藤歓之助を招聘。歓之助は大村藩の頭取に就任し、藩士に神道無念流を指南しました。藤道場の師範代を務めたのが柴江運八郎です。柴江は、彼の父宮村佐久馬から、すでに一刀流を皆伝されていましたが、藩命により神道無念流を学び上達。戊辰の役、佐賀の乱に従軍。帰郷後は神道無念流を指導しました。

 柴江から指導を受けて免許皆伝したのが寺井市太郎で、神道無念流はその子寺井知高に伝承されますが、知高が豊田師範の直接の師に当たります。

「神道無念流」齋藤歓之助→末岡四郎

「神道無念流」齋藤歓之助→末岡四郎

 

斎藤歓之助 柴江運八郎 寺井市太郎 寺井知高 豊田喜代子

楠本章三郎の神道無念流免許は、東京の練兵館が衰退した後の明治十九年に、柴江運八郎があらためて皆伝しています。鋭く実を学んだ章三郎に対する尊敬か友情か。

3、有信館の系統

 慶応年間に入り、練兵館の師範代を務めた根岸信五郎は、河井継之助とともに北越戦争を戦い、維新後の明治十八年、自身が主催する有信館を設立しました。その養子である中山博道が有信館を継承。中山は昭和の剣聖と称され、昭和の剣道界の最高権威です。

 豊田師範の師である寺井知高は、中山博道の内弟子でした。従って豊田師範も有信館の剣と無関係ではなく、有信館の中島五郎蔵、中倉清からは、関東派神道無念流の指導を受け、同じく門人の紙本栄一、橋本正武、額田長とも交流。そして、中山博道の剣を最も深く伝承した木村栄寿に入門。豊田師範は、木村栄寿から免許皆伝しました。

斎藤弥九郎 根岸信五郎 中山博道 木村栄寿 豊田喜代子

 以上、神道無念流練兵館から発生した主な流派をすべて継承しているのは、豊田師範であり、師範が継承した剣技、剣理を、伝承の連続性とその修行過程から、特に神道無念流練兵館流儀と宣言いたします。

 

神道無念流 練兵館流儀

 神道無念流練兵館流儀について、少しだけご紹介します。

1、演剣場

 練兵館では、道場訓(「演剣場壁紙」)が掲げられています。神道無念流では、道場はあくまでも「演剣場」であり戦場ではありません。神がいて師がいて先輩がいて、その前で、修行者は仲良く稽古する場です。したがって、常在戦場的な、左手で刀を刃を上にしてを持つことは絶対にありません。右手で持つ場合、刃を下にして持つこともありません。これは他流派です。それに足袋等は履きません。演剣場とは先の通り。そこは修行の場であり、そもそも神道無念流はすべて立ち技ですので、下半身、さらには足の踏ん張りがなければまともに演武できません。
 また刀礼ですが、手のひらをももの上部を滑らせて礼をする、といった方式ではありません。この所作を行い演武する剣技は、もはや神道無念流ではありませんのでご注意下さい。

「未発之象」柴江運八郎

「未発之象」柴江運八郎
「未発」は技や極意ではなく状態を示します。

2、免許体系

 齋藤弥九郎は、練兵館の修行をわかりやすくするため、剪紙から始まる撃剣館の修錬レベルをやめ、「目録」、「順免許」、「免許」の三段階にしました。また弥九郎は、より洗練された流派にすべく、藤田東湖や江川英龍らの協力を得て、剣理の確立、剣技の整理、追加する作業を開始。例えば撃剣館では、立居合十剣でしたが、十二剣に拡張。さらにすべての技にその技の特徴を表す名称を付け、修行者の理解を促しました。
 学ぶテーマは、次の通り。

「神道無念流」柴江運八郎

「神道無念流」柴江運八郎

 

 立居合について、神道無念流の「目録」では、原則では、最低でも次の三本(「巌波」「浮船返」「野嵐返」)をしっかりマスターすることになっています。一部の作家が、できるものが極めて少なく、としていますが、これは練兵館の免許発行のさじ加減が問題で、弥九郎は、剣技のみならず練兵館に貢献した者には、その度合い次第で「目録」を与えていました。現存する資料を見ると、たいして練兵館に通ってない者でも、門弟として名前が連なる場合があります。つまり、教えてもらったけどさわりだけ、さらには、そもそも教わっていなくとも、剣技は「五加(後述)」さえやっていれば「目録」をもらえる場合があり、結果、例えば「目録」を殿様への公費留学の証として利用し、いざ国許で剣を教える段でさっぱりわからない、といった事態になってしまっているケースがあります。

3、剣技

(1)霞返

 神道無念流の剣技の中心は、「霞返」と呼ぶ繰刀です。

 豊田師範曰く「寺井先生の下では、一年間は「霞返」のみやらされて…」その後、中島五郎蔵、そして中倉清に師事。「特に中島先生はお優しく、技良し、とお墨付きをいただき、私としてもかなりいけたかな、と思いきや、木村栄寿先生の下、またしても「霞返」からやらされて、いや違う、そうそれで良し、の繰り返しでした。」

神道無念流免許皆伝 木村栄寿 豊田喜代子

「神道無念流」木村栄寿→豊田喜代子

(2)五加五形

 「五加一圓之太刀」(木火土金水)の内、「天上」について、この技はある幕末の殺害事件の太刀筋で、豊田師範曰く「中倉先生と検討していたところ、中島先生も加わって、中倉先生と中島先生が五加を開始。この辺がちょっと違うよね、こんな感じかな…とか。とても楽しく、貴重な時間でした。

「五加一圓之太刀」久松鶴

「五加一圓之太刀」久松鶴

「五加五形解説」久松鶴

「五加五形解説」久松鶴

 もっとも「中倉先生は、私の場合、技の指導と言うより、胴着をたたまされてばかりでしたね。」と豊田師範

(3)非打

 ここからは、「順免許」テーマ。修行の中心になります。全部で十本。

「非打」久松鶴

「非打」久松鶴

 

「非打解説」久松鶴

「非打解説」久松鶴

(4)総合二剣

 総合二剣は免許皆伝の技術的な最終テーマです。呼び方ですが、練兵館の神道無念流で、齋藤弥九郎(篤信齋)の流儀では「統合?二剣」とは呼びません。

 総合二剣は、弌剣「心慮剣」、弐剣「圓中刀」で構成され、両方とも走りながら行う技。心慮剣は一対一、圓中刀は一対多を想定し、相手が完全沈黙するまで行います。
 心慮剣は先先の先。相手の防御まで読み込みますので、相手は防戦一方。そのうち倒れます。
 そして
圓中刀。走りこんで、そこにいる全員を切り倒します。そんな場面は戦場しかありません。この技は、現在、豊田師範しかできません。

 東京国立博物館が公開している資料では、「統合二剣」となってますが、この「目録」は慶応二年に入ってすぐ齋藤新太郎(二代目齋藤弥九郎)が発行しています。新太郎が代替わりの際、内容を省略(?)変名したものと思います。このころの師範代は根岸信五郎なので、有信館も「統合」と呼ぶ方がいるかもしれません。ちなみに紙本栄一先生、木村栄寿先生ともに有信館OBですが、総合二剣でした。

(5)五位傳記(修行の心得)

 神道無念流では、修行の心得も図示しています。「五位傳記」として「免許」に記載されています。簡単に述べると、稽古を怠けると真下に「下リ」、そこからもう一回修行をやり直して「上ル」って行かなければなりません。常にピークの状態を保つことこそ肝要。

「五位傳記」柴江運八郎

「五位傳記」柴江運八郎

 

 さらに追記。修行の段階が5ステップあるということは、そのレベルに従って技も(さらに複雑に)変わってくるということ。最低でも3レベル存在します。例えば、立居合12剣としていますが、12 × 3レベル の36通りあることになります。まあ、古流ではおおむね表裏普通にありますから特別なことではありませんよね。

「神道無念流免許皆伝」柴江運八郎

「神道無念流免許皆伝」柴江運八郎

 今回は、私たちの流派伝承の連続性と内容の正確性を示す最低限の資料を掲載するにとどめました。続きは、本格的に活動できるようになったら再開します。
 おたのしみに。

神道無念流 練兵館流儀 設立準備室

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