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武徳流剣術
明治に入り、大日本武徳会の主要メンバーとなった渡辺昇は、盟友柴江運八郎とともに流派を超えた新剣術形を編む。しかし出来上がったそれは、旧大村藩の斎藤歓之助から学んだ神道無念流になっていた。
※本サイトでは、渡邊昇・渡邉昇についてすべて渡辺昇と表記します。

大村藩神道無念流としての
武徳流剣術
制定の梗概
明治28年、大日本武徳会が誕生。武術の総本山を目指す上で、あまたある剣術流派の共通言語としての剣術形が必要になった。この剣術形は、企画段階では、「武徳流剣術新形」と呼び、早速制定委員会を立ち上げ、渡辺昇を主任に任じた。渡辺は、同門の柴江運八郎と案を作成。武徳会総裁小松宮彰仁親王の決裁を得て正式剣術形に決定した。
一方、制定委員会では、各剣術流派のエッセンスを拾って新形を作るものと考えていた。しかし渡辺と柴江が披露したのは、まさに「神道無念流」であった。これを普及奨励せよと言われても、そもそも自流でもなく、慣れない太刀筋に不満不承知で、委員会の大半は納得がいかない。が、子爵であり、維新の雄でもある渡辺昇の一睨みで決定。だれも反対はできなかった。
渡辺昇が顧問に引き下がると、武徳会は再び新形制定を開始。綿密な教育現場の調査と激しい議論の末、大正元年に「大日本帝国剣道形」が制定。同時に「武徳流剣術形」は消滅した。
武徳流剣術形
渡辺昇と柴江運八郎。大村藩士の二人は、ともに練兵館流儀の神道無念流。二人で作る剣術形となれば、当然ながら神道無念流になる。しかしながら「五加五形」や「非打」(神道無念流)をそのままやる訳にもいかない。そこで思いついた。かつて二人が学んだ微神堂(斎藤歓之助の私邸道場)で稽古した剣。この太刀筋をベースに考案したのが、武徳流剣術形。つまりそれは大村藩の神道無念流そのものであった。
練兵館神道無念流
斎藤歓之助の突技
大村藩神道無念流
武徳流剣術

渡辺昇と柴江運八郎が作った大日本武徳会最初の剣術形をその名称から、特に武徳流と呼ぶ。武徳流は大日本武徳会のスタンダードに非ず。これが大村藩神道無念流である。
