大村藩の二人
神道無念流以前の大村藩では、柴江運八郎の父、宮村佐久馬を師と仰ぐ一刀流であった。渡辺昇も一刀流に入門。少年ながらすでに払捨刀までマスターしていた柴江から手ほどきを受けていた。大村藩が神道無念流を導入してからは、柴江は斎藤歓之助のもとですぐに頭角をあらわし、昇は江戸に上り練兵館の塾頭になるほど上達した。その後も、二人は生涯を通じお互いの腕を認め合う関係が続いた。
渡辺昇は「大村騒動」の顛末を報告するために、長崎奉行徳永石見守に面会した。その際「捕虜ノ徒多クハ兵学、或ハ撃剣者流ノミ」(九葉実録)と弁明。大村藩が兵制改革し、新しく神道無念流を導入したことに対する旧流派による反対勢力を一掃した、とした。しかしそうであれば、一刀流が禁止されていたにもかかわらず稽古を続けていた宮村佐久馬もターゲットになってしかるべきだが、昇は宮村に対してはなにも触れていない。
昇としては、宮村に関しては特に政治的な障害になる可能性もないし、もし旧勢力として宮村をターゲットにすると、その子柴江運八郎がおとなしくしているはずもなく、生粋の剣術家である柴江の力量から、その剣をもって抵抗されればかなり厄介。ならばいっそ柴江を仲間に誘い込んだ方が得策、と踏んだのかもしれない。
大村三十七士の末席に、柴江運八郎の名が見える。

渡辺 昇
渡辺昇は大村藩における維新の雄であり、官僚・政治家として子爵にまで立身した。プロファイルについては、様々な伝記や読物があるのでそれらを参考にされたし。

(熊本県立図書館)
幕末の京都のある夜、新選組につけられた渡辺昇は、振り向き様に抜刀し横面を斬り倒した。以降、真剣での応酬は続く。そして維新が成り、自らも年老いて振り返る。「戦って斬ったのは何ともないが、闇討ちした相手は思い出して安眠できない。」と。
(近代剣道名著体系)
柴江運八郎
旧大分県武徳殿(大分中央警察署付近)に、柴江先生剣道旌功之碑(明治25年建立)が立つ。柴江運八郎のプロファイルがこの碑文に書かれている。軍医部長として小倉に赴任した森鴎外も観光で訪れた。

柴江運八郎は、大村藩一刀流師範である父、宮村通明の次男。当初は父に従って一刀流を学ぶも、安政2年、21歳の時、藩命により新たに大村藩剣術師範役に任命された斎藤歓之助のもとで神道無念流を学ぶ。その後、江戸、九州諸藩、高知へ廻国修行に出る。
戊辰の役に出陣。奥羽征伐では先鋒を任され、大村藩第二軍の小隊長を務め、佐賀の乱では、警備隊長を務めた。明治8年には、大阪府警に勤務。警部昇進。その後、明治18年に大分県警に勤務。明治21年に一旦退職するも、剣術師範として後人の教育にあたった。
(碑文要約)

柴江運八郎は、大分を辞し郷里に戻り、郷童に剣道を教えた。師範代は、寺井市太郎。佐賀の乱の際の同僚であった。柴江は、神道無念流の皆伝の証として、自ら削り出し、自ら使った木刀をそのまま与えた。その木刀は、市太郎、そしてその子寺井知高を経て、現在、豊田喜代子が持つ。

