大日本武徳会制定剣術形
大日本武徳会制定剣術形としては、明治45年発行の内藤高治と門奈正(北辰一刀流)が演武した解説本が国会図書館から公開されている。
この剣術形を私たち神道無念流の修行者が演武すると、これは当流の太刀筋に違いなく、この形こそが、渡辺昇と柴江運八郎の技の根幹に流れる旧大村藩の剣から派生した剣術形であると認める。
大日本武徳会総裁小松宮彰仁親王の決裁を済ませた渡辺昇は、武徳誌の紙上で武徳流剣術新形として公開した。演武する剣術範士は、渡辺昇と得能関四郎(直心影流)。渡辺自らが打太刀、得能が仕太刀を務めた。この演武で渡辺昇の画を眺めると、神道無念流の本来の姿を垣間見ることができ、とても興味深い。
「大日本武徳会制定剣術形」
(熊本県立図書館)
- 一、形は三本と爲し、上中下段に分け木刀、及び双引(剣)を以て講習す。
- 一、木刀の総丈けは、三尺三寸五分(二分反り)柄は八寸とす。
- 一、双引(剣)の形を講習するは、丁年以上(熟練)にして教授の許可を得たるものに限る。
- 一、退場の体は総て臨場の体の如くす。
天
上 段
双方起立し、甲は上段に構え其精神の充るに及て、乙は正眼を以て右足り三足前進し直に甲の上段に対す。
甲は乙の右小手を撃つの状を示し、乙は之れを察し刃を少しく右に転して之れに備う。
甲は進て乙の左腕を大袈裟に切込み、乙は左足を右足の後斜に引き、右足を左足に引付くると同時に刀を竪上段に摺上げて敵刃を外づし(天之四)、更に右足を踏込み、敵刃を刀左平にて打落し、又右足を踏込ながら甲の胸部を突く。

神道無念流では、渡辺は「浮舟」、得能は「天」と呼ぶ。ここから上に伸び上がって敵の刀を叩き落としての突き。寺井知高師範も良くやっていたパターン。
地
中 段
甲は中段(脇上段)に構え、乙は正眼にて右足より三足前進し、互に真向に冠りて(地之二)、直に切結び、甲は乙の強弱を図り、機の熟するを見て乙の刀を抑え、その胴に突き込む。
乙は左足を左横一文字に披き、又右足を其後ろに引きながら刀を右より左に旋廻し、甲の体突撃の余勢を以て、前に流るるを認め、側面より大袈裟切る。

渡辺の脇上段。ひじは必要以上に張らず、左ひじをまっすぐ得能に向ける。これは「左飛鳥剣」の体制。左腕を伸ばすだけで敵に到達する。足は撞木。重心は前かかり。典型的な神道無念流スタイル。寺井知高師範もこの構えであった。
人
下 段
甲乙互に下段に構え、直に進んで乙の脚に切込む(人之五)。
乙は左足を右後足に盗みなから、刀を下げ左平にて敵刀を防ぎ、右足を右後斜に引きながら左より敵刀を撃ち、其余勢を以て刀を右より左に旋廻して敵刀を巻落し、左足を右足に引付けなから上段構となりて、左足より一二と踏込み、甲の真向を打つ。
甲は双手を右に鉾先を左にして之れを受く。

下段からの攻防。「非打」。特に手首の柔軟性が必要となるが、これも神道無念流の特徴。巻落は神道無念流の技。
得能関四郎
渡辺昇の仕太刀を務めた得能関四郎(直心影流)は、渡辺をして「その剣は絶妙の一語に尽きる」と言わしめた。
剣客としては小兵の得能は、トレードマークの金縁眼鏡にフロックコートと、かなりスマートな紳士だが、その剣さばきは抜群で、撃剣会では「聞ク、警視官中今多ク雄儁(雄俊)ノ人アリ、逸見(宗助)、得能両氏モットモ名ヲ知ラル。」と話題。高野佐三郎は「警視庁第一の使い手」と評した。得能は、警視庁巡査部長を経て、警視庁、東京帝国大学、第一高等学校の武術教師を務めた。
明治41年7月18日の各社朝刊には「日本一の剣客自殺」の見出しが躍った。得能関四郎は、愛用の短刀で喉を掻っ切って、短刀を綺麗に片付けた後、布団上に寝衣のまま府伏していた。検視に駆け付けた菊地警部は、喉の傷口の一刀を認め「さすがは先生。見事なご最後!」と感嘆した。得能の自刃は、病気を苦にしたものであった。
