神道無念流の剣法

1.極意

 神道無念流の免許に必ず登場する二文字。これこそが神道無念流の極意。そして神道無念流の剣の修行は、この二文字を追求することに他なりません。

「神道無念流」岡田十松
最も重要なので、フリガナを振ってくれています。
この二文字がない神道無念流は、弊社とは関係ありません。
楠本章三郎は、弥九郎の口授メモの中でも
繰り返ししつこく唱えています。

 神道無念流の基本的な操体を簡単に説明します。

2.基本動作

(1)立つ

 神道無念流はすべて立ち技です。歩きながら、走りながら行います。
 まず立つ。骨盤の下に足が伸びる位置に立つ。いわゆる自然体です。そして体軸は二軸。股関節に係る二本の軸を動かして、素早く急激に体を移動させます。移動は、動こうとする方向の足、または敵方向に向かう足から動かします。これが基本動作。
 神道無念流では、体を必要以上にねじったり、足をまたいで移動を始めることは絶対にありません。技として、片手もしくは両手で逆袈裟に切り上げる形が現れますが、体をねじりきって、ほぼ半身になって切り上げることを嫌います。後ろ足を前に一気に踏み込むこともしません。こんなことをやっていると、気づいたときには敵に切られて終わっています。

(2)撞木足

 古流剣術では、例えば切る動作で、両足を90度に開き、腰をぐっと落として切り下げます。足の裏で大地をつかみ、腰を割って切り落とす。T字に開いたこの足構えを撞木(しゅもく)足と言いますが、神道無念流の撞木足は、両足の開きは、45度から90度の間となっています。どの方向にも素早く動けるように幅が持たせてあります。
 カカトは地に着けます。現代剣道のように浮かせません。別章でも述べましたが、神道無念流は、敵を一刀両断にする剣。しかし介者剣法のように、そこまで腰を落としません。腰を割ると、素早く動くことができなくなってしまうからです。

(3)三分

 神道無念流は、歩きながら走りながら技を繰り出し、しかも敵を一刀両断する太刀筋を中心とした流派。歩きながら技を出すので当然腰もさほど落とせない。足もさほど踏ん張らない。でも切る、両断する。では、どうやるのか。
 神道無念流独特の操体があります。特に刀を振り下ろす際、「三分」という極意があります。三分は9.09ミリ。この約1センチを使います。

(4)刀にのる

 敵を斬る際、「超脱力」から振りかぶり、相手に刀が触れる寸前、一瞬重心を物打方向に移動させます。神道無念流では、これを「刀にのる」と称します。

(5)力の斎藤

 神道無念流の鋭い太刀筋、強力な打撃から、当時から「力の斎藤」と称誉されていました。この言葉からは、剛腕でなにがなんでも断ち切る剣法とイメージされます。おまけに練兵館は非常に激しい稽古で知られていましたので、そのイメージで皆が納得したのでしょう。

 剣の修行は、もちろん筋力、体力は必要ですが、神道無念流は剣の術です。腰高でスマートな姿勢から、いざ刀を振り下ろすと両断するほど強烈な太刀筋を実現する術。なんでそうなるのか。次の「流水」を繰り返して体得します。


3.流水

 練兵館に入門し、一番最初に稽古します。みんな整列して、木刀をもって構えます。「流水」とは、いわば基本稽古です。流水を何度も稽古しないと組太刀だろうが居合だろうが、神道無念流を全く理解できません。「力の斎藤」と呼ばれる操刀の原点。ここからスタート。

(6)中霞

 「中霞」は剣道の正眼の構えに似ています。しかし切先の位置が少し違います。

 神道無念流の「霞」では、防御攻撃は一体。状態は超脱力。古流剣術では、正眼(青眼)は半身になる場合がありますが、神道無念流では正面を向きます。体は自然体。現代剣道のように必ずしも右足前でなくても良い。全方向に動ける状態です。

(7)真向

 「流水」では、自然体で立ち、「中霞」から振りかぶり、踏み込んでしっかり「腰」まで斬る。前に進んだり、後ろに下がったり。この繰り返し。この稽古はとても深く重要です。先の「三分」を使い「刀に乗る」まで繰り返し徹底的に稽古します。


4.霞返

 「霞返」は神道無念流の中心の技です。

 ある大会に参加した時の事。「上座にいた檀崎(友彰)先生が手招きするので近寄っていくと、『中倉(清)君がやってるアレって、「霞返」だよね。』と尋ねられました。」と豊田師範。

檀崎友彰師範と豊田師範

(8)霞返

 豊田師範曰く「寺井(知高)先生の下では、一年間は「霞返」のみやらされて」その後、中島五郎蔵、そして中倉清に師事。「特に中島先生はお優しく、技良し、とお墨付きをいただき、私としてもかなりいけたかな、と思いきや、木村栄寿先生の下、またしても霞返からやらされて、いや違う、そうそれで良し、の繰り返しでした。」