楠本章三郎

秘剣(1)

 私たちの流儀の大師範である楠本章三郎についてご紹介します。まずは墓碑から。

楠本直右衛門ノ二男従二位男爵正隆ノ舎弟ナリ.幼キヨリ剣法ヲ学ビ.神道無念流ノ皆伝免許ナリ.戊辰ノ際王事ニ勤メ戦功アリ.平和后ハ故山ニ際居シ剣道ヲ郷童ニ教ユルヲ以ッテ己ノ任トナス.偶病ヲ得テ明治三十九年十二月三十日卒ス.六十有九才

旧楠本正隆屋敷(大村市)

 楠本章三郎は大村藩士。実兄は、大久保利通の懐刀と呼ばれた楠本正隆。楠本兄弟は、藩命で江戸に遊学。剣術は斎藤弥九郎の練兵館に入門します。章三郎は14歳。目端が利く兄と異なり、この朴訥な少年は、特に隠居先生(岡田十松)から目をかけられ、とても可愛がられました。
 嘉永年間当時の練兵館は、長男新太郎が廻国修行のため不在で、師範代を三男の歓之助が務め、同郷の荘新右衛門が塾頭、筆頭には美作津山藩の井汲唯一がいました。練兵館に江川英龍、藤田東湖が頻繁に出入りしていた頃で、章三郎は、なにやら難しい講義を聞くよりも、隠居先生と風呂焚きの弥助とともに剣の稽古をやってた方がよっぽど楽しかったのでしょう。兄はほどなく国許に戻りますが、章三郎は練兵館に残ります。
 章三郎と同じころ入門してきたのが長州藩の桂小五郎。同郷の渡辺昇はまだ上府していません。

 章三郎は隠居先生のもと、先輩にあたる弥助、撃剣館から移籍した百合元昇蔵とともに他流派との試合稽古、さらには諸藩藩邸へ出張指南に出向く日々。この頃、兄貴分の弥助の剣は未到に達し、師範代の歓之助が他流試合で負けたと聞くと、練兵館の面目を施すため再戦に出向き相手をたたきのめす。時勢の喧騒をよそに、純粋剣士であった章三郎は、そんな剣術三昧の青春を過ごしました。
 他流派からも一目置かれるようになった弥助は旧里の仏生寺を名乗り得意満面で、他流派との交流がどんどん広がっていきます。そしてそんな交流相手の中に新選組の芹沢鴨([戸賀崎熊太郎]神道無念流)がいました。芹沢は、主義主張がない弥助を巧みに誘導し仲間に引き入れます。そして、ついに弥助は練兵館を離れ上京。

 しばらくして、練兵館には弥助が新選組の芹沢鴨と組んで暴れまくっている、との噂が舞い込んできます。練兵館は斎藤新太郎の尽力で長州藩と仲が良く、門弟が新選組とともに行動し狼藉を働いたとあらば、すこぶる都合が悪い。困った斎藤弥九郎は、岡田十松に相談。誰を立てるか。

 十松は章三郎を弥助のもとに向かわせました。

 章三郎ならば弥助も警戒しない。弥助に会って練兵館に戻るよう説得してこい。