武徳流新型制定委員会
大日本武徳会会長渡辺千秋の後を継いだ大浦兼武の第八回青年演武大会(明治39年)における演説から、武徳流剣術新形制定の進捗や武徳会の称号である範士、教士の発表等、関連部分を引用する。
大日本武徳会「大浦会長の演説」
(熊本県立図書館)
大日本武徳会々長大浦兼武氏は、本月六日青年演武大会に参集の各範士教士、及び各委員其他重なる本部役員等三百余名を岡崎町博覽会場に招集して大会慰労の宴を催したるが、席上会長は起て大要左の意味の演説を試みられたり。
武徳流剣術新形制定
別項記載の如く、武徳会本部にては去九日より剣術範士渡辺子爵、以下範士柴江運八郎、得能関四郎、 根岸信五郎、阿部守衛其他参加員として教士内藤高治、左山捨吉、富山圓、助教授矢野勝次郎、港部邦治其他、中山資信、山里忠徳の諸氏は武徳会本部に会し、武徳流の剣術新形制定に就き協議研究せしが、古来の剣術流義は二百八十余流ありて一流派に三十以上の形あり。
これを総合して一々研究するは実に容易の業にあらざるも、各流の奥義を抜く時は帰する処、「天」「地」「人」の三段に止まるを以て、先づ武徳流の新形としてこの三段を以て定めんとの評議一決したり。木刀の形は既に決定せしかば、午前九時より新形の練習をなせり。尚三本の真剣白刃の形は引き続き研究中なる由。

(熊本県立図書館)
| 剣術範士 | 渡辺 昇 | 東京 | 神道無念流 | |
| 柴江運八郎 | 長崎 | 神道無念流 | ||
| 得能関四郎 | 東京 | 直心影流 | ||
| 根岸信五郎 | 東京 | 神道無念流 | ||
| 阿部守衛 | 岡山 | 直心影流 | ||
| 剣術教士 | 内藤高治 | 武徳会本部 | 北辰一刀流 | |
| 左山捨吉 | 滋賀 | 直心影流 | ||
| 富山圓 | 台湾 | 直心影流 | ||
| 矢野勝次郎 | 武徳会本部 | 直心影流 | ||
| 港部邦治 | 武徳会本部 | 山口流 | ||
| 中山資信 | 東京 | 神道無念流 | ||
| 山里忠徳 | 東京 | 東軍新当流 |
武徳会の範士教士
武徳会本部に於て先に任命したる剣術、柔術、槍術、弓術の範士教士は左の諸氏なり
- 剣術範士
東京、子爵渡辺昇。本部(岡崎)、三橋鑑一郎(東軍流・武蔵流・鏡新明智流)。長崎、柴江運八郎。東京、得能関四郎。愛知、坂部大作(鏡新明智流)。岡山、阿部守衛。東京、根岸信五郎。 - 柔術範士
東京、嘉納治五郎。千葉、戸塚英美。熊本、星野九門。 - 弓術範士
愛知、奥村閑水。本部、富田忠正。
中等武術教科書
中山資信、中野篤一郎両氏の共篇にして其の趣意は、初心の学生をして武術の概要を領得せしむるにあり。書中一々図を挿入し詳細の説明を附したれば、初学者には有益なるべし。上篇は不日出版さるべく中篇は本年中に上梓の都合なりと。
佐賀の乱の後、京都府は「撃剣の稽古をするものは、国事犯嫌疑者と認む。」と府令(明治9)。これを無視した小関教道(心形刀流)は逮捕、二条城に監禁。そんな中、西南の役(明治10)では、警視庁抜剣隊が活躍し、世間ではやはり剣術は必要と評した。
しかし一方、学校教育においては、体操伝習所(明治16)、学生衛生顧問会(明治29)で検討されたが、発育発達の見地と指導者不足を理由に、武術は学校で正科とするには不適当との結論であった。
では「体操」ではどうか。小学校校長であった小沢卯之助は「新式武術体操法」を考案したが、先の顧問会主事、三島通良(衛生学)は不適とした。

武徳会としても、文部省に学校教育としての武術の価値を認めさせるべく、中山資信、中野篤一郎に課題を与えた。大浦兼武の演説から「中等武術教科書」前編の原稿は、明治39年にはすでに出来上がっていたことになる。
帝国議会は、教育と武術に関する民間からの運動に答え、明治39年の議会で「体育に関する建議書」(衆議院議員・星野仙蔵・小沢愛次郎)(小野派一刀流・武徳会)は可決されたが、文部省は、それでも武術を学校教育の正科と認めなかった。
大正10年。中山博道(資信)は、著書「剣道手引草」の冒頭「『剣道は正しき道なり』現今心身の鍛錬たる剣道を体育と言っているが、体育という言葉が剣道の意義に適当であるか否かということは疑問である。」と述べている。
武徳誌・日本武道体系・近代剣道著名体系・新式武術体操法
