陰之太刀、陽之太刀
紙本栄一先生
古志小源太に引き続き長州藩の神道無念流の話から。
長州藩には、長府藩、徳山藩、清末藩、岩国藩の支藩があり、それぞれの藩個別では、神道無念流に関心をもって情報収集をしていたようです。そして幕末。藩の有事に際し長州藩は結束。嘉永六年に至り、斎藤弥九郎および新太郎の尽力で神道無念流は長州藩で正式に採用されました。この時から長州全域で練兵館流儀を本格的に稽古を開始することになりますが、小源太の場合のように、長州支藩にはすでに撃剣館の神道無念流で目録以上の者も結構いて、撃剣館流儀を洗練した形が練兵館流儀ととらえれば、幕末の長州藩では、いわば新旧の神道無念流が混在した状態になっていた模様です。

豊田師範の山口修行時代。木村栄寿師範とは別に、紙本栄一師範にも師事。紙本師範は、木村師範と同じく有信館出身で、夢想神伝流を修められました。しかし一方、神道無念流も造詣が深く、有信館後も全国を巡り独自に神道無念流を追求。
「紙本先生は、戸賀崎、岡田、斎藤、そして根岸信五郎の神道無念流の変遷を理解されていて、どの技がどんな形になったのか、そしてその技名はなにか等々ご教授いただきました。」

カレーがお好きと言うことで「一週間分のカレーを作り持参してお伺いしていました。」と豊田師範。
新旧の神道無念流が混在しているがゆえに判明した事の一つ。立居合の変遷について。別称で述べた通り、撃剣館では十本であった型を斎藤弥九郎、江川英龍は十二本にしました。それは具体的にどの部分をどのように分解、整理していったのか。

撃剣館の「陰之太刀」「陽之太刀」は、変化体も多く含まれ、複雑な太刀。そこで、斎藤弥九郎たちは、この技を各々二つに分け、
撃剣館 | 練兵館 | |
陰之太刀 | 左残月 | 陰刀 |
陽之太刀 | 右残月 | 陽刀 |
とし、どちらも「霞」(上段)で一旦止める内容に変更しました。なぜか。
一つは、修練することで、右足前、左足前どちらでも斬れるようになること。次に、この技を居合として自習すれば、「非打」につながり、無理なく組太刀稽古できるようになること。そして、これらの技の「霞」で止まった次の動き、ここから人体箇所を斬り込むのですが、五位傳記(前述)のレベルに合わせて斬り込む場所が異なり、段階を踏んで技量向上ができること。
弥九郎たちは、技を整理することで、初代岡田十松では、何をやっているのさっぱりかわからない技でも、修行者が体系的に理解できるようになることを見込みました。
練兵館流儀内でも、伝わる経路で違った形になっているものもあります。
寺井(知高)先生に連なる斎藤歓之助から柴江運八郎の流儀では、諸手突きは「刃を下にして」突く。そしてこれは一般的な手法。ところが、岡田十松から楠本章三郎では、「刃を上にして」突く。竹刀や木刀ではさしてかわらない。しかし、真剣であれば。
「敵を確実にヤるんだったらね、刃は上だよ。はははっ。」と紙本師範。