新精隊の出陣
楠本章三郎
幕府からの長崎惣奉行に任命された大村藩第十二代藩主大村純熈は、体調不良を理由に一旦はその任を辞退したものの、そんなに悪いのであれば隠居すべし、と幕府に詰め寄られ、仕方なく受令しました。しかし、万が一、勤王派を称する三十七士同盟が露見すると、奉行の立場どころか幕府から処分を下されるのは必定で、この先行く道を間違えると、二万七千石の小藩など簡単に吹き飛んでしまう、と苦悩していました。
三十七士同盟による血の粛清「大村騒動」が起きると、純熈は、領内および勤王方の諸藩に対しては、勤王派が佐幕派を一掃した、と宣し、一方、幕府には、先の騒動は私闘であると報告。それでも幕府は、大村藩に不穏あり、と睥睨。そんな中、薩摩の大久保一蔵より、近々にも島津久光公が上洛するので、御殿もご一緒に上洛し、国事に協力されたし、と催促があり、純熈の懊悩がさらに深まりました。
天下の趨勢が急変する今、どう動くか。
「新ニ士族ノ二三男健強ノ者ヲ精撰シ別ニ一隊ヲ設ケ各隊ノ先鋒ト為シ之ヲ新精組ト唱」(九葉実録)
慶応三年四月、ついに意を決した純熈は、自らが上洛しない代わりに、「新精隊」と名付けた一隊を派遣することにしました。新精隊は、渡辺清左衛門(清)を隊長とする藩士で腕が立つ者十五名を選出。楠本章三郎も一員として軍務に就きました。
たったの十五名でなにができる。
万が一事が成らなくとも、幕府には、渡辺清の首一つで弁明できる。
この隊伍を受けた渡辺昇は、長崎の坂本龍馬を訪ね、新精隊の上洛を相談。龍馬そして同席していた後藤象二郎は、藩船「夕顔」に乗船することを了承。章三郎たちは、むしろに銃と刀を包み込み、長崎に散らばる公儀隠密の目を欺きながら夜陰に乗じて乗船し、無事長崎港を出帆しました。
なお、この航海の間に、龍馬は「船中八策」を記し、後藤象二郎や渡辺清に誇示したとのこと。

出典:大村市立史料館(現:大村市歴史資料館)
「幕末大村偉人ものがたり」から抜粋
「幕人京坂間ニ充満シ厳ニ列藩ノ聚會ヲ討究ス」(九葉実録)
新精隊は、大坂から公儀隠密の目をかいくぐり京の薩摩藩邸の側の曹洞宗道正庵(九葉実録)になんとか到着。在京の世話は薩摩の大久保に頼み、しかし新精隊は、大村藩兵ではなく、薩摩藩兵として行動することになりました。
七月に入り、国許から士鉄砲組が上洛し合流。新精隊は六十名ほどに膨張し、さすがに隠し通せず、京都守護職から嫌疑をかけられることとなり、道正庵には近藤勇率いる新選組が捜索にやってきます。
「幕府大ニ大村ヲ疑ヒ、道正庵ハ薩州下陣ヲ標示スト雖モ之ニ屯在スルモノハ皆大村ノ兵士ノミ」(九葉実録)
近藤は、応対した渡辺昇と出会い破顔一笑。
近藤勇と渡辺昇は昇の練兵館時代からの知人で、近藤が務める試衛館に道場破りが来た時、天然理心流では相手を殺しかねない。そこで練兵館に使いをやって、昇を呼んで相手をしてもらう場面が多々あり、昇にしてみれば、良いバイト先の同僚よろしく、とても仲が良かったとのこと。
近藤勇は、大村藩兵とわかったうえで見逃しました。昇の強さは周知の事、さらに目の端で章三郎をとらえていたに違いありません。ここで踏み込むと厄介なことになる。
近藤たちが帰った後、渡辺昇は、すぐさま兄の清と西郷隆盛を交え相談した結果、士鉄砲組を一旦国許に戻しました。一方、納得がいかない土方歳三率いる探索方が再び道正庵に踏み込むも、新精隊は薩摩藩邸に入った後でした。
慶応三年十月十四日、将軍徳川慶喜は大政を奉還。十二月九日には、王政復古の大号令が発せられクーデターを敢行。ここで大村純熈は上洛を果たし天皇に謁見。ついに自らの姿勢を明確にしました。
慶応四年正月。京都郊外の鳥羽、伏見方面で維新軍は旧幕府軍と激突。新精隊は、旧幕府軍の東からの進軍を阻止すべく維新軍先鋒として大津に進軍しました。この時初めて大村の藩旗を掲げ、薩摩軍ではなく、独立した軍として世間に示すことになります。
正規軍として東海道鎮撫総督軍の配下に組み込まれた大村軍は、先鋒隊を担い死傷者が続出。減員するも、国許から増強の兵が送り込まれてきます。一方、独立したがゆえに、軍資金はすべて自前で調達しなければならなくなり、小口をかき集め、かろうじて隊を支えられるぎりぎりの状態。
東海道鎮撫総督軍は、大津から東海道を進軍し、一月二十二日、四日市に到着。翌二十三日から桑名城を囲みます。桑名藩では、抗戦か降参か激しく議論しましたが、開城を決定。城の受け渡しは、表門は大村藩、裏門は佐土原藩が入城して行いました。