荘新右衛門の最後
慶応三年五月
練兵館初代の塾頭である荘新右衛門は、大村藩家老江頭官太夫の次男。兄の隼之助も父と同じく家老を務め、新右衛門は用人として藩に参政。嘉永年間に大村藩が兵制改革の一環で藩剣術を正式に決定する際、斎藤弥九郎の練兵館に派遣されました。新右衛門は、廻国修行で大村藩に来訪した斎藤新太郎とは特に仲が良く、練兵館に入門してからは新太郎に付き従い稽古に励み、新太郎不在の時は、師範代である斎藤歓之助を良く支えていました。小藩ながら家老の家柄ということで、館長の斎藤弥九郎も一目置いていて、塾頭として練兵館門人のまとめ役を任せていました。
嘉永七年に入り、新右衛門は、歓之助の父である弥九郎に許しを得て、歓之助を大村藩に招聘。この時、歓之助は二十二歳。若年ながら剣術師範役兼者頭として大村藩に仕官、新右衛門は神道無念流取立役に抜擢され、大村藩の剣術は、神道無念流に統一されました。

新右衛門は、大村藩の用人として九州各地に赴き、大村藩の正式な使者として各地の藩主に謁見。大村藩主からは感状を賜るほどの人物。時勢が急変すると、渡辺昇たち勤王派が活動しやすいように藩主に便宜を図り、一方、幕府からもにらまれないようバランスしながら藩の舵取りをしていった一人です。新右衛門は、進取の気性に富み、練兵館ブレーンである江川英龍の革新性を理解していました。その意味では、思想的には渡辺昇と大きくは違わなかったと思います。

さて、文久年間まで塾頭を務めた練兵館を辞し大村藩の戻った渡辺昇は、楠本章三郎の兄、楠本勘四郎(正隆)や大村藩校五教館の祭酒(学長)松林廉之助(飯山)たちとともに勤王派「三十七士」を結成。そして、松林飯山が殺害されたことをきっかけに「大村騒動」と呼ばれる血の粛清が開始されます。
大村騒動は、本当に藩論をまとめるために必要な行動だったのかどうか不明な点が多く、当時、大村藩に潜伏中だった土佐の中岡慎太郎も「こんなことをやっている場合か」と渡辺清(渡辺昇実兄・石井筆子の父)に意見しています。しかし三十七士は粛清を止めず、その最後の仕上げとして、家老の家柄である荘新右衛門をターゲットとしました。
慶応三年五月二十一日、在府中の新右衛門に突然帰藩の命があり、二人の藩士とともに江戸を出発しました。この時すでに事態を察していた新右衛門は、二十三日、藤沢宿についたところで、「お前たち二人は、江ノ島の観光でもしておいてくれ、自分は鎌倉に立ち寄らなければならない寺がある。」と言い残し立ち去ります。待てども待てども新右衛門は戻ってこない。しかたなく宿に戻ると、江戸藩邸に戻り上司の指示を受けるように、と書置きがありました。報を受けた上司は驚愕し直ちに探索を開始。しかしなかなか見つからない。
そうしている内に、京の公用人で三十七士の中尾静摩が「斎藤新太郎がかくまっているらしい」との情報を得、同じく在京の三十七士、大村歓十郎、長岡治三郎(科学者長岡半太郎の父)は直ちに上府。江戸藩邸の朝長慎三を加え、練兵館を目指しました。
練兵館に着いた三人は、斎藤新太郎ではなく、その父篤信斎(斎藤弥九郎)を出せと迫ります。なにごとかと篤信斎が出ていくと、子息の新太郎は、新右衛門をかくまっているとし、速やかに居場所を教えないと「大村藩のいる歓之助殿の進退に関わりますぞ。」と恫喝。驚いた篤信斎は藩情を訪ねた上で、新太郎を呼び新右衛門の居場所を尋ねると、常陸国胎蔵院(九葉実録)に潜伏中であると判明。
新右衛門は、神道無念流免許皆伝の腕前。大村藩の捕り手だけでは苦戦するとし、練兵館門人により追手を組織することにしました。検視役は新右衛門を良く見知っている大村藩の浦小斎治。
「斎藤門人某二倚テ捕縛セントス」(九葉実録)
追手は、新右衛門の潜伏先の寺を囲み、一斉に踏み込みました。新右衛門は追手と切り結びましたが、寺の厠に逃げ込み、もはやここまでと自刃。
この事件の経緯を江戸藩邸に報告されたのが、なぜか事件から一ヶ月もあまり経った慶応三年八月九日。そして五日後の八月十四日、新右衛門の兄、大村藩家老江頭隼之助が突如罷免。江頭兄弟の罪状は今もって不明。しかし、これで三十七士によるクーデターは完了し、大村藩政を掌握することになります。